「上町台地」の歴史は古く、この地に人の暮らしが根付いたのは縄文時代にまで遡ります。これは現在の「森之宮」付近で発見された遺跡が証明しています。その後、聖徳太子が「四天王寺」を建立し、難波宮の時代にはわが国の首都にもなりました。平安時代の後期に熊野詣がさかんになると、上皇や女院・貴族たちが京都から船で淀川を下り、現在の天満橋付近にあった渡辺津で上陸し、ここから始まる熊野街道を歩いて、熊野三山へと向かいました。
戦国時代になると、現在の「大阪城」の場所に、本願寺8世の蓮如が大坂御坊を建立し、この大坂御坊がやがて「大坂本願寺」となり、一向一揆の総司令部として機能します。そして、この「大坂本願寺」の周囲には寺内町ができ、多くの人々が住んでいました。「大坂本願寺」は10年間にわたって織田信長と戦ったあと、この地を去りますが、その跡地に豊臣秀吉が天下統一の拠点として「大坂城」を築きました。「大坂城」の築城にともない城下町が建設され、たくさんの武家屋敷が建ち並び、寺町も整備されました。秀吉のつくった町の区画は基本的に現在まで継承されています。
秀吉の築いた「大坂城」は息子の秀頼の代に大坂夏の陣で落城しましたが、徳川幕府によって再築され、城下町も復興を遂げます。江戸時代に入り大坂は全国流通の拠点と位置づけられ、天下の台所と呼ばれる商業の町として発展し、町人による学問・文化の中心地としても栄えました。 そうした中、豊臣時代には「大坂城」となっていた地域が市街地として開放され、「上町台地」は居住地として発展します。明治維新後、「大阪城」は陸軍の所在地となり、周囲には大規模な軍需工場が建設され、そのため第二次大戦では「上町台地」は激しい空襲に見舞われましたが、幸い戦災でも焼失を免れ、現在までその佇まいを残す地域もあります。また「大坂城」の天守閣は江戸時代初期に落雷で焼失したまま、長らく再建されませんでしたが、昭和6年(1931)に全額市民の寄付金で、現在の天守閣が復興されました。
そして戦後、高度成長期の経済活性に伴い「上町台地」は、さらにその表情を近代都市として変えていきます。現在では大阪ビジネスパークを始めとして高層ビルがいくつも建ち、高層マンションの建築も進んでいます。これら近代的景観に、特有の歴史文化を匂わせる景観が複合し、「上町台地」は全国でも稀に見る都心居住地となったのです。